笑顔の大切さ(青春の1ページ)

先日私は常連のお客様に言われました。「社長さんはいつも穏やかで笑顔でいられますね。怒ったことなどないんでしょう?」と…怒ったことがない?この私が?

予想もしなかったお客様の言葉に私は気恥ずかしくてただただ苦笑するばかりでした。仕事柄なるべく笑顔でいようと務めてはおりますが、怒ったことがないなどということは決してありません。それどころか…私は兄二人、姉一人の四人兄妹の末っ子で少し甘やかされて育ったせいか、ひとたびヘソを曲げると感情を剥き出しにして激しく怒ることが多い人間でした。
若い頃レストランでウエイトレスもしていたこともありましたが失礼な発言をしたお客様にムカついてコップの水を顔を目掛けてかけてしまったこともありました。
つい最近もあまりにも人を見下した社員の軽口に対して、お盆を投げつけてしまい「ふざけるな!!いい加減にしろ!!」と怒鳴ってしまったことがありました。
私は心臓に持病があるため、怒ると呼吸が苦しくなり体にもかなりのダメージを受けます。ですから気をつけてはいるのですが、やはり私もただの凡人…いくら
気をつけていても怒りの感情に我を忘れてしまうこともあります。
ただそんな時…いつも思い出すことがあります。いや…思い出すというよりも常に私の心の中にあり、決して忘れないように大切にしている思い出なのですが…声が聞こえてくるのです…「ミー子。怒っちゃいけないよ」と…優しく私を説き伏せるような遠い昔の声…怒りん坊だった私がお客様に「怒ったことなどないんでしょう」と言ってもらえるほどに成長した私を育て支えてくれた遠い日の思い出…
社員にお盆を投げつけ、久しぶりに感情を剥き出しにしてしまった自分への戒めとして、そして決して忘れてはいけない大切な教訓を今一度自分自身に植えつけるために…今日はその思い出を話したいと思います。
…もう半世紀近く前のことになります。当時17才だった私には3つ年上の彼氏がいました。彼は福島県から栃木県足利市に単身で転居してきて、市内にある小さなスナックでバーテンとして働いておりました。その店は石工をしていた私の一番上の兄のお嫁さんが勤めていた喫茶店の並びにありました。
彼と知り合ったのは、その店の二階に私が通っていたギター教室があり、そのギター教室に彼も習いに来ていたのです。当時ギターを弾く女性は極まれでしたが、トレモロで弾くギターの名曲「アルハンブラ宮殿の思い出」という曲を聴いた途端、どうしてもギターを習いたくなってしまい、貧しい家でしたから到底無理だとは思ったのですが、真剣に一生懸命に相談したら、二番目の兄が警視庁へ勤務がきまり、学生時代から毎朝、新聞配達して貯めたお金を用意してくれて、三千円のギターも買ってくれました。
天にも上がる嬉しさと感動と感謝は今でも忘れることはできません。…私の彼は吉田兼好の「徒然草(つれづれ草)」を愛読していて、世の中や人間をちょっと斜めに構えて観察するというか、うまく説明できませんがちょっと変わった人でした(苦笑)。
でもその心は水晶のように澄みきっていてとても優しい人でもありました。彼は「強く猛き者を友にするなかれ」という吉田兼好の言葉を好み、私にもよく話してくれました。悲しいことや病気やお金のことなど、一度も苦労したことのない人間には、人の痛みなどわからない。だからそんな人とは付き合うな…というような意味だったと思います。
そのように少し変わった人だったのは事実ですが、いつも優しく私を守るようにいろいろ教えてくれる彼のことが私は大好きでした。
彼とのデートは週に一度のギター教室の帰り道…私の家まで歩きながら将来の夢を語り合いながら帰る時と、彼の給料日に喫茶店でコーヒーと洋菓子をご馳走になる程度でしたが、貧しかったけど夢と希望に輝いていた幸せな日々でした。
そんなある日、私の母が頻繁に貧血で倒れることが多くなり、往診に来てくださっていた先生から、大きな病院へ行くことを進められました。子宮筋腫の疑いがあったからです。足利の日赤に入院がきまり、子宮筋腫なら2~3週間で帰れると思ったのですが、子宮筋腫の手術をして3日目にもう一度手術をしなければならないと言われてしまいました。腸が癒着しているからと…しかし、母の病気はそんなあまいものではなく、手のほどこしようのないほどに癌が転移していたのです。
父と兄夫婦だけに知らされていて、私は母が元気になることを疑いもせず信じていました。二度の手術をし退院してからも一時的には温泉に行ったりもしましたが、一向に善くなる気配はありませんでした。激痛と貧血との戦いです。貧血があまりにも酷いので、輸血も何度かしていました。
輸血もお金のかかることなので、同じA型である私が輸血したいとお医者様に申し出ましたが、家が貧しかったせいもあり栄養状態は決してよくなく慢性の貧血状態でしたので結局私は輸血することができませんでした。
その話しを彼にしたところ「僕も同じA型だから僕の血を使ってくれ」と申し出てくれたのです。彼の温かい気持ちと行為のおかげで母は少し元気を取り戻し、希望の光がさしたかのように感じました。
そして、献血をしてくれた後、母は彼の顔を見て「ありがとう。これで本当の親子になれたね」と言ってとても喜んでおりました。
末っ子で甘えん坊で母が大好きだった私はギター教室をやめて、仕事が終わると母の看病のため毎日病院へ行くようになりました。母は二度の手術にもかかわらず改善するどころか益々悪くなっていく体調にしびれを切らすと言うよりも、少しでも早く元気になって(戦争で心臓を悪くした父の代わりに和裁で生計を立て家族を守ってくれていましたので…)1日も早く働かなくてはならないと言う気持ちが大きかったのでしょう。

再々度の手術も覚悟の上で、入院したのです。レストランに勤めていた私は少しでも医療や病気に関しての知識を身に付けて母の役にたてればとレストランを辞めて小さな個人病院へ勤めるようになり、母の看病に専念し、母は私が絶対守ると決意しました。必然的に彼と会える日もめっきり減ってしまいました。現在のように携帯電話はなく、家の固定電話も一部の富裕層しか設置していなかった時代です。
ある日彼が見舞に来てくれた時、母に点滴をうちにきた看護婦さんの横暴な態度に、私はついに切れてしまって「何よその態度!!お母さんが死んだらあんたのせいだからね」と病室で激しく怒鳴り怒ってしまいました。
激しい怒りに身を震わせる私の姿に彼は「ミー子(彼は私をそう呼んでおりました)怒っちゃいけないよ。看護婦さんだって同じ人間なんだ。疲れてくれば少しは顔にも出ちゃうから」と、看護婦さんに頭を下げてその場を収めてくれました。
その後病院を出ると彼は「ミー子。怒るということと、相手のために叱るという行為は全く別だ。さっきの看護婦さんのためにも後々よくないから今ここで教えておこう、相手を思って看護婦さんを叱るならば僕も止めたりしない。でもさっきのミー子は叱ったのではなく怒ったんだよね。怒るのはダメだよ。自分のためにも相手のためにもならないから…それにミー子が怒ったらお母さんが一番辛くて悲しい思いするよ。ミー子が笑顔でいればお母さんも幸せだよ。さっきミー子が怒ったから看護婦さんも益々機嫌悪くなるし、お母さんも凄く悲しい顔してたよ。ミー子の笑顔と思いやりが今のお母さんには一番の栄養素だよ!しかめっ面は人に伝染するんだ。でも笑顔と感謝の気持ちも人に伝染するんだよ。笑顔と感謝の伝染病ならさ病院だって大歓迎だからいつでも笑顔でいようね」と教えてくれました。
その日を境に、私は怒りという感情を極力抑え、努めて笑顔であるように過ごそうとするようになりました。母も常に、物静かに何時も優しい笑顔を絶やさずに、どんなに貧しくても辛くても騙されても利用されても人への思いやりも忘れず…どうして優しい笑顔でいられるのと不思議なくらい何時も静かに微笑んでいました。
そんな母の笑顔は安心できるなごみと優しさと勇気と強さをみんなに与えてくれていました…そしてその母も「笑顔は人の心を和ませてくれる。怒りから良いことは何も生まれない」とも言っていましたから…
そして、それから彼が翌週から全く病院へ来なくなりました。来ない日が続き、私も彼の様子が気になり彼の勤める店に行ってみました。しかしそこに彼の姿はありませんでした。
お店の人に聞いてみると「知らなかったの?勇君(ユウクン)は体調が悪いみたいで仕事をやめて福島へ帰ったんだよ」と言われそれ以外のことは知らないと言われました。晴天の霹靂でした。あれほど優しかった彼が…故郷へ帰ってしまった。しかも私に何も告げずに…「きっと彼は母に付きっきりで会えなくなってしまった私を…嫌になったのだろう…きっとそうだ…」私はそう思いました。
でも不思議なことに黙って帰ってしまった彼のことを恨む気持ちもありませんでした。「勇君ありがとう。私は勇君を怒ったりしないからね。嫌われたのは私が悪いのだから…勇君の好きな笑顔の女の子でいられるように、これからも頑張っていくからね」そう強く心に思いました。
その1ヶ月後、必死の看病も空しく母は天国へと旅立っていきました。「扶美子、強く生きるんだよ!悲しまないで、いつも笑っていてね。笑顔は人を幸せにする。母ちゃんは何処へ逝ってもずっとお前を見守ってるからね」と言う言葉を残して…私の成人式の前日でした。
辛くて悲しくて泣いて泣いて泣き続けて…涙も枯れた状態で、母の告別式を執り行いました。参列の方々が次々と母にご焼香してくれます。その参列者の列に、私は会いたくて会いたくてしょうがなかった顔を見つけます。彼です!黙って故郷へ帰ってしまった彼が来てくれていたのです。私はびっくりと同時に嬉しさで彼のもとに走りよりました。
久しぶりに近くで見る彼の顔…でも頬はこけ体もやせ細り弱っているようでした。しかも頭は丸坊主です。体調が悪いとは聞いていたけれど…一体これはどうしたことか?場所も場所でしたのであまり話すこともできず、その時の私には彼に起きていた異変の原因がわかりませんでした。
結果的に彼に会ったのはその日が最後、皮肉にも母の告別式の日になりました。3ヶ月後、彼の友人に呼び出され、そこですべてを知ることになります。友人が私に教えてくれたこと…それはまさに衝撃の事実でした。
「勇君はミー子のお母さんが再入院した後、体調がすごく悪くなって病院へ行ったんだ。そこで末期の胃癌だっていうことがわかって…その時点で余命3ヶ月だと言われていたらしい。それでこっちにいるとミー子が自分の所へ来ちゃうから…ミー子はお母さんのことで今は大変だからって福島へ帰ったんだよ。ミー子のお母さんが亡くなったことは自分たちが勇君に知らせたんだ。それでミー子のことが心配になって告別式に来たんだろうけど…その後また福島へ帰って…先週亡くなったよ…22才という若さで…勇君は自分の運命も知っていたからね…ミー子に悲しい思いさせたくないからって…すべてを内緒にしておいてほしいって言われてて…今まで隠しててごめん」と…
なんということでしょうか!?
私はこの時ほど人生の残酷さ、そして悲哀を思い知ったことはありませんでした。彼は自分の余命を知っていたがために、私に悲しい思いをさせぬよう黙って私の前から去っていたのです。一見冷たいようにも思えた彼の行動は…本当に私を思った真の優しさだったのです。
あまりのショックに頭の中が真っ白になりました。僅か半年にも満たぬ短期間に母に続き彼まで逝ってしまうなんて…私はこの世を憾み正気を失ってしまい、気が付くと渡良瀬川の橋上に一人たたずんでいました。
(このまま身を投げてしまおうか…そしたら楽になれるかな?母ちゃんと勇君に会えるかな?)なんてバカなことを真剣に思いながら…
でも彼の優しさ、そして母の残してくれた最後の言葉を無駄にはできません。ここで身を投げたら母や彼を裏切ることになる。「悲しんでいるだけじゃダメだ…笑顔になって前だけを向いて、しっかりと生きていかなくちゃ」そう強く決意した時でもありました。
そうは言っても、やはり悲しい!辛い!…私はこの悲しみを乗り越え、笑顔を取り戻す為に足利を離れようと決意しました。
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