たとえその者が嫌いでも仕事を認めよ
表題の言葉は4月6日の読売新聞の朝刊に載っていました。…人は劣情や嫉妬から自分以外の成功や業績を認められない。ひきょうな言い訳をいろいろ作り出して、実行や努力から我が身を遠ざけるのも人間だろう…(以上4月6日、よみうり寸評より抜粋)
まさに言い得て妙。記事を読んだ時に我が身を振り返ってみても、胸が痛くなる思いがしました。なぜ人間はこのような習性を持つのでしょうか?それは人間は誰しも本能に「自我(エゴ)」というものを持っているからだと思います。しかし人間はその「自我(エゴ)というものを「誇り(プライド)というものに置き換えて誤解し、間違って使っている場合がたくさんあるのではないかと思います。学識の浅い私には「エゴ」や「プライド」というものの定義はわかりませんが、今回はその2つについて私の思い出を振り返りながら、私なりの見解を記してみたいと思います。
…もう半世紀近く経過した遠い昔のことになります。以前のブログにも掲載しましたが、当時十代だった私はレストランでウェイトレスの仕事をしていたことがありました。そしてまだ若く血気盛んだった当時の私は、あるお客様のあまりにも人をバカにした粗暴な振舞いについ腹をたててしまい「ふざけるな!とっとと帰れ!!」と怒鳴りながらコップの水を頭からかけてしまったことがありました。もちろんそれだけ腹をたてたのは当時の私が短気だったというだけではなく、そのお客様の言動が、当時はセクハラなどという言葉はありませんでしたが、そんなわかりやすい今風な言い方では表現できないほど失礼千万、犯罪にも近いことだったからなのですが…それにしても私の取った行動は、ウェイトレスとして生計を立てているその道のプロとして言語道断な暴挙であり、決して正当化されるものではありません。結果的にそのお客様のみならず、店内にいた多数の他のお客様、そしてレストランで働いていた上司や同僚にも多大なるご迷惑をかけることになってしまいました。
当然のことながらレストランのオーナーに呼び出され、きついお叱りを受けることになりました。しかし興奮冷めやらぬ私はその場でオーナーに向かって「私の何がいけないのですか?私にもプライドがあります」と言い放ったのです。それを聞いたオーナーは一瞬きょとんとして唖然としたような表情をしながら私にこう言いました。「私にもプライドがありますって?何をバカなことを言ってるんだ!?プライドというのは人様が自分につけてくれるものなんだよ。自分で自分にプライドをつけるなんて???そんなのおかしいよ」とおっしゃったのです。私はオーナーの言葉の真意を理解できなくて、しかめっ面をしながら首をひねっていました。
オーナーはこう続けました。「確かにあのお客さんのやったことはひどかった。激しく怒るのは当たり前だし、ある意味それが人として正しいのかもしれない。しかし君はこの道で飯を食っているプロだ!仕事をしてお金を稼いでいる以上プロフェッショナルなんだ。給料の高い安いは関係ない」「そのプロである君が怒りから自分を見失いああいったことをした。さっきはそれを人として正しいのかもしれんと言ったけど…じゃあプロとしてどうだったのか?人として正しいというよりも…プロとして適切な行為ができていたと思うか?正しいことと適切なことは時と場合によって全然違うことがある。そしてプロである以上、職場に於いては正しいことではなく、常に適切な判断をしなければならない。それがプロとしてのプライドっていうものだ」「君の行動は決してプライドなんかじゃない。自らの怒りの感情にかまけてプロとしてのプライドを忘れたエゴってやつだ!わかるか?」…そう言われても…確かにそれはそうかもしれませんが、当時の私にオーナーの言葉を理解するには、まだまだ人生経験も知恵も浅すぎました。
「じゃあどうすればよかったのですか?どうすればオーナーは私を適切な行動をしたと、そしてプライドを守るための態度だと思ってくれたのですか?」と聞いてみました。するとオーナーは「本来ならば自分で考えなさいと言いたいが、あんなこともあったので今回だけは特別に教えてやろう。なにも何でも我慢して卑屈になれと言っているのではない。あの場合に君がお客さんに対して言うことは「お客様。失礼な言動は慎んで下さい。私だけではなく他のお客様のご迷惑にもなります。わかっていただけなければ退店していただき今後一切の来店をお断りします。その上で警察にも通報します」とでも言えばよかったんだ。それが適切な言動であり、そうすれば僕も君を「プライドの高い立派な社員だ」と評価することもできただろう。」…そう言われてみれば確かにそうですよね。その時に初めて「ああ私がバカだった。私はエゴとプライドを間違って使ってたんだ」と気付きました。何か今思うとその時はとても恥ずかしかったです。
以上のことはまだ私が十代の頃の昔の話ですが、最近になっても形は違いますが似たようなことを経験したり見たり聞いたりすることがあります。私と同じように飲食の商売をしている友人のお店でのことなのですが、社内に於いてある社員が新たな企画を提案し、代表者である友人がそれを承認して実行に移すことがあります。本来ならばそんな時こそ社員もパートもバイトも一丸となって協力し合わなければならないのですが、必ずそういったことに反発する人達がいるそうです。「そんなことやってもダメだよ」とか「そんなの無駄に決まってるじゃん」とか「くだらないことやってる」とか…陰でそういった批判ばかりする社員もいるらしいのですが…でもそういったことは何も友人のお店だけではなく、私の会社でもあるし、政界も含め世間一般的にも決して珍しいことではないと思います。そしてどういうわけか?陰でそう言い批判ばかりする人に限って自らの意見がない。知恵がない。代案がない。やる気がない。信頼がない等々…ないない尽くしのオンパレードだったりもします。
変化や進歩、そして前進する人を見て自分ができないから批判ばかりする。そんな人が多いように思えます。それではなぜ?人はそんな愚かな行為をしてしまうのでしょうか?それはやはりかつての私と同じようように「エゴ」と「プライド」を混同して間違って理解しているからではないでしょうか。自分がかわいいから自分の存在、そしてプライドを守るために人を批判する。けれども自分が「プライド」だと思って守ろうとしているものの本質は決してプライドなどではなく「エゴ」だったりする。自分でも本当は進歩したい、進化したいと思っているのに、つまらないプライドが邪魔をして人の意見や考えを素直に聞くことができず批判ばかり繰り返す。
そして結果的に自分で自分の成長の足を引っ張ってしまう…。正に自分で自分の可能性を潰してしまう愚かな行為ですが…「その者が嫌いでも仕事を認めよ」という言葉から自省を含めいろんなことを考えてしまいました。今回新聞の記事を読んでことがきっかけになり、こんなとりとめのないことを書いてみたのは、ここのところ社内でいろいろと考えさせられることがあったからなのですが…何か自分の気持ちをうまく表現できません。
話を昔に戻しましょう。オーナーはあの時、厳しく私を叱責しましたが私を解雇することはしませんでした。その数年後に私は結婚し退職することになるのですが(ちなみにそのレストランでコックとして働いていて知り合ったのが今の夫です)その後も様々な面でご指導や応援を賜り、かまだ家の創業時にもお客様として何度かご来店くださいました。そのオーナーもすでに現世での人生を卒業され今は天国にいらっしゃいます。そんなオーナーが私を叱責してくださった時、今も私の財産として残してくださったお言葉を皆さんにご紹介したいと思います。
「エゴを超越したところに真のプライドがある。それができた時に初めて人様が「あの人は誇り高き人だ」と評価してくださる。みー子ちゃん。そのことを決して忘れちゃいけないよ」……私は昔も今も人に恵まれた幸せな存在なんですね…神様に感謝
コメント
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ぐっときてしまいました
未だに大人(プロ)になりきれない自分には、心に刺さるようなお話でした!
ありがとうございますm(_ _)m
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言い訳
仕事…言い訳、私も若い頃は沢山らしてきました。失敗すれば誰かのせいに…皆は誰でも人のせいにしたいし、誰でも自分が可愛い…皆自分が正しいと思うのが本心
仕事も人間関係も全て難しい…また時間あったらお店にお邪魔します。