己を知る人

無知の者ほど知ったかぶりをし 高慢な者ほど他人を見下したがる
知識が深くなるほど未知のものの多きがわかり 己を知る人ほど他人の偉さがわかる
だから正しく知る者ほど謙虚であり 心おだやかな者ほど高ぶらない 謙虚で高ぶらない人となろう 人生に必ず光明がもたらされる…( 身延山久遠寺第九十世 岩間日勇法主著「共に生き 共に栄える」より)…

この一節を読んだ時、「そうだよなぁ〰。私も気をつけなくちゃ!」との想いを胸に強く刻みこみました。小さな会社であっても社長を務めていると、従業員のみならず食品や商品の卸問屋、ガスや電気、水道などのライフラインに関わる業者さんたちまで、私の前ではそれなりに気を使って下さいます。

しかしそれは私という個人に対してのお気遣いではなく、会社の「代表取締役」という私の肩書きに対してのお気遣いなのでありましょう。そのことがわかっているからこそ、私自身もそんな日常に対して「決して高慢な態度をとってはいけない。勘違いをしてはいけない。」と充分に気をつけているつもりなのですが…

それでも知らず知らずのうちに少しずつ過ちを犯してしまうのが人間の悲しい性(さが)ですね。自分が何気なく発した言葉や構えた態度が、人を傷つけてしまったことも過去に於いて何度かございました。
こういった御教えに触れると、改めて日頃の自分自身の身の在り方に慎重でなければと深く痛感するばかりです。私の記憶が確かならばプロ野球界の名監督、ノムさんこと野村克也氏も似たようなことを語られていたと思います。「二流、三流の選手ほど自分を一流だと勘違いし日々の研鑽を忘れる。だから成長しない。一流の選手は自分を一流だと思っていない。だから常に精進、研究、努力をする。そして更に成長を重ねる。一流と二流の差はそこだ」と…

この教訓も仏教やプロスポーツの世界に限らず、どんな世界であっても忘れてはならない大切なことだと思います。仏教といえばある寺院のホームページで次のような法話を拝見したことがありました。
以下、高野山真言宗東京別院ホームページより引用…

「法は語りません。言葉は方法でしかありません」。(解説)「美味しいお菓子に名前を付けてその美味しさを言葉で説明は出来るでしょう。でも、お言葉はお菓子にはなれません。貴方には名前があり、回りは貴方の事をいろいろと言い表すでしょう。でも、名前が貴方になることはあり得ません。なのに何故?人は教典や書物を読んでは、佛の代理人を気取って、講説を論じるのでしょうか?滑稽な話ではありませんか。(中略)本人の尊厳と自覚が備わらない限り、理解は出来ていません。何を急いで誰を追い越そうとしているのでしょうか?向かうべきは我が心です。律すべきは我が欲の数々です。自身に帰り、心に巣くっている本当の鬼を沈めましょう」

この御法話の大意も、冒頭の御教えや野村元監督のお言葉と同じようなものだと思います。仏教に於いても、どんなにありがたい経典を読んで、そこに真理や理論を発見し理解したつもりになっても、自らの身の振る舞いを律することなく高慢であれば、真にその経典の教えを体得したことにはならないのです。

一般的に「エリート」と呼ばれている国家組織の官僚さん達でさえ、参考人招致や証人喚問という国家最高機関の場所に於いて「記憶がない」とか「資料が見つからないとか」訳のわからない答弁を平然と繰り広げる現代の世相でもあります。なのに私たち人間は、ふとしたことで自分たちの置かれている環境や己や他者の肩書き、他者やメディアからの無責任な評価や情報、偏った思想やプロパガンダ等に頭脳を惑わされ、自身の目も耳も鼻も口も塞がれ、その結果として等身大の「本来の自分」を見失い、驕り、高ぶりなどの目立つ「偽物の自分」に自身を乗っ取られてしまうことがあります。

「偽物の自分」が「本来の自分」の成長の足を引っ張ってしまい、何を見ても何を聞いても「気づく」ことさえできなくなってしまうことさえあるのです。「裸の王様」という逸話がございますが、「裸の王様」は自分が素っ裸で街中を歩いていることにさえ気づきません。
周囲の人達からの「お世辞」と「気遣い」に惑わされ「丸裸」で街中を闊歩している自身の姿に、気づくことができません。とても恥ずかしい格好で人々の前に晒されているのに…。

人は天から頭を始め「目、耳、口、鼻、肌」という「五感」を与えていただきました。自身の高慢さからそれらを充分に活用しない生き方なんて、本当にもったいないことだと思います。常に自分の目で見て自分の耳で聞き、自分の鼻で嗅いで自分の口で噛んで味わい、自分の肌で感じて自分の頭で考える。
そんな「本来の自分」で物事を判断する✨そういったことを習慣づければ「高慢な人間」にはならなくて済むかもしれませんね。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という有名なことわざもございますが、人も偉く立派になればなるほど「謙虚さ」を失わないことが大切なことだと思う今日この頃です…。

何だか偉そうに講釈を垂れてきましたが、決して自惚れからブログに記載していることではありません。むしろ私が私自身に対して、大切なことを決して忘れないように記していることでもあります。様々な日々の出来事の中で、ふとしたことで気づかされることがあるのです。仏様からのメッセージとでも申しましょうか✨

私は法華経の信仰者なので、妙法蓮華経全28品、69384字の中から、どんなに忙しくても毎日必ず唱え、常に胸に抱き決して忘れないようにしている一節がございます。それは次の20字から成る一節です…

「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」。この20字の通解は次のようなものであります。
「私(お釈迦様のこと)はつねにこのように念じている。どのようにすれば衆生(生命ある全てのもの)を、無上(最高)の道に入らせることができ、速やかに仏身を成就(真理を体得すること)させることができるだろうかと…」。

この一節によって、私は仏教を学ぶこととは、経典に書かれていることを自分の浅はかな理解に合わせて、都合のいいように解釈することではなく、仏教の教えを自身が日々の仕事や出来事、人付き合いの中でどのように実践して人様のお役に立てるようになれるだろうか?
そう考えることが大切なんだと思えるようになりました。

様々な出来事は、「気づく」ことの大切さを教えていただける、仏様からのありがたきメッセージなのだということを…
そんな私のちっぽけな知見ではございますが、ブログに記すことによって、お読みいただいた方々の人生に何かしらお役に立てれば、それは私にとって最高の光栄と喜びであります。

余計なお世話かもしれませんが、そういった意味、そして自身に対しての戒めも込めて記載していることなので、決して高慢な講説を論じているつもりはございません。誤解のないようにお願い申し上げます。……

最後までお読みいただきまして誠にありがとうございます。皆様の御多幸を心よりお祈り申し上げます🍀いのちに合掌☀それではまた😄✋

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