師走(12月)に思うこと

月日の過ぎるのは本当に早いもので、今年も後半月を残すのみとなりました。「光陰矢の如し」とはよくいったもので、齢70にも近くなると、ますますそのことを強く実感いたします。12月は古くは師走(しわす)と呼ばれ、師が走るほど忙しい月との喩えがあります。師とは(師匠)のことなのでしょうか?一説では師とは僧侶のことを指すという説もあるようです。僧侶、即ちお坊様が仏事で忙しくなり走り回るから(師走)と呼ばれるようになったとか…いずれにしろ、そういった方々も走るほど忙しい月が12月だから(師走)と呼ばれるようになったという俗説もあります。真偽の程はわかりませんが、確かに12月は年末ということもあり、師に限らず誰もが忙しくなる時期でもあります。私も本年は人手不足ということもあり、慌ただしい毎日を余儀なくされる年度となりました。自業自得とはよくいったものです。良いことも悪いことも自分がやったことは全て我が身に返ってくる。いい意味でも悪い意味でもそのことを強く思い知らされた年でもありました。

登山の思い出

私は毎年12月になると必ず思い出すことがあります。それは小学生の時に、父に連れられ地方のある山を登山した思い出です。山の名前もその山がどこにあったのかも忘れてしまいました。そして父も私も登山を趣味にしていたわけでもなく、何故その山に行き頂上を目指したのか?そのことさえ忘れてしまいました。だからこそその山の頂上で見た景色、そして思った感情を鮮明に覚えているのかもしれませんが…私はその山が「とても高い山」であり、雲を近くで見ることができ、日によっては雲を触ることもできる「天界に近いお山」と父から説明を受けてました。そこまでいうとその山は「富士山」だと思われる方が多いと思いますが富士山ではありませんでした。その山が富士山ではないということは当時の私にもわかっていました。しかしその山に登る過程の、登山道での出来事や思いは全く忘れてしまっていて、思い出すことができません。繰り返しになりますが覚えているのは頂上で見た景色と、その時に思った感情だけであって…そして山の頂上はとても寒かった。そのことも身に染みる感触で覚えております。12月という時期に、ある程度の標高がある山に行けば寒いのは当たり前ですが、私はその山に行くまで「山の上は太陽に近いから温かい」と思っていたのです。しかし山の上は寒かった。そして私達の周り一面を白い雲が覆っていました。今から思うとその白い雲は「霧」だったのかもしれません。

「山の上は太陽に近いから温かい」そう思っていた私は父に聞いてみました。「お父さん。山の上は太陽に近いのにどうしてこんなに寒いの?」と…父は優しく笑いながら教えてくれました。「山の上は太陽に近くても空気が薄いから寒いんだよ。太陽の温かさは空気を温めるのではなく、最初に地面を温めるんだ。そして温められた地面の熱が空気を温めて気温が上がる。でも山の上は空気が薄いから地面が空気を温めようと思っても、その温める空気が少ないから寒いんだよ」…もちろんその時の私に、父の答をハッキリと理解することはできませんでした。ただ漠然と「山の上は太陽に近くても、太陽が温める空気が少ないから寒いんだ」と思っただけです。そして父はこう続けました。「扶美子ありがとう。いいことを聞いてくれたね。お父さんは感謝の気持ちが足りなかったようだねぇ~」 「神様の慈愛も太陽の温かさも同じなんだよね。みんなに平等に降り注いでるのに…温かくなる所と温かくならない所がある」「それは祈る気持ちと、生かされていることへの感謝の気持ちがあるかどうかということだけなんだね。空気が少なければ太陽に近くても寒いんだよね…神様に祈っても、感謝の気持ちが薄ければ慈愛を受け取ることはできないんだよなぁ~」…父は目を細めて感慨深そうな面持ちでそう語ると「お父さんが間違っていたようだね。扶美子。さあ家に帰ろう」そう言って私の手を取り、再び歩きながら下山を始めました。私の記憶もそこでまた途絶えております…下山から家へ帰る途中での出来事や思いも、やはり全く覚えておりません。ただ家に帰ると、いつもと同じように満面の笑みを浮かべた母が「おかえり」と言って強く抱きしめてくれたこと。そのことはハッキリと覚えております。いつもと同じように、母の抱擁はとても温かかった………。何度も言いますが、何故その山に行ったのか?登山したのか?その山が何処なのか?本当に全く覚えておりません。半世紀以上も昔の12月という寒い時期に、登山の趣味もない父と幼い私が、わざわざその山に行ったのは一体なぜだったのでしょうか?思い出すことができません。いや…本当は思い出したくないだけなのかもしれませんが………12月は師走ともいい師が走るほど忙しい時期です。師走に限らず、今年はその忙しい月日を痛感しながら東奔西走する毎日でした。でも暇な毎日を過ごすよりは、忙しい方がありがたいことかもしれません。

よく考えてみると「忙しい」の「忙」という字は、漢字で「心部」を表す「りっしんべん」に「亡」という字を書きます。すなわち「心を亡くす」という意味です。「無くす」のではなく「亡くす」のです。「無」と「亡」ではだいぶ意味合いが違い、より深刻な状態であると思うのは私だけでしょうか?今年は本当に慌ただしい毎日を過ごしました。その慌ただしさに「忙しい。忙しい」と口にして「心を亡くし」慌ただしい毎日に「本当は有り難いことなんだ」と「感謝の心」を忘れてしまっていた自分自身に対し、自戒の念を込めて今回はこんなとりとめのない文章を掲載させていただきました。忙しくなる「師走」だからこそ忘れてはならないこと、立ち止まって考えなくてはならないことがある。今の私があるのは働いてくれる従業員のおかげ数多い飲食店の中でも、かまだ家を選んで御足を運んでくださる「お客様」のおかげ縁あってお知り合いになれた皆様のおかげそして生かして下さる神様、仏様のおかげ…全ては「お陰様(おかげさま)」なのです。その「お陰様」によって私という個人は存在しているのです。それは私に限らず人として生きる以上、誰もが同じことであって…「人」と「人」との「間」を取り持ちながら生きているのが「人間」なのですから…しみじみと人生って深いものだなぁ~と思います。と同時にとっても素晴らしいものだということも…
だからこそどんな時も感謝の心を忘れずにいたいものです😊 

長々と御拝読ありがとう後財増す。なぜ「後財増す」と書いたのか?それは考えてみてくださいね😉ヒントは「ありがとう」の後、すなわち感謝の後に?何が増えるでしょうか?

このブログを読んで下さった皆様の幸福を心よりお祈り申し上げます。南無妙法蓮華経🍀 いのちに合掌🙏 それではまた😊😊😊

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